博士の愛した数式  ☆☆☆★

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

有名なベストセラー小説が文庫化してたので、余った商品券で買ってみた。
八十分しか記憶の持たない老数学者と優秀な家政婦さん+その息子との、ゆったりとした物語。
文庫化する前から評判が非常に良かったので、どのように物語と数学を絡ませているんだろうと思ったが、正直言って、これだけ数学をロマンチックに語れるものだとは思わなかった。
不精でやせほそり、ひどい猫背で対人恐怖症。そんな博士だが数式の話になると別人のようになる。

「大学で研究なさったのは、数学のどんな分野なんですか」
理解できるわけもないのだが、願いを聞き入れて外出してくれたお礼に、数学の関わりのある話をしようと思い質問した。
「数学の女王と呼ばれる分野だね」
缶コーヒーをごくりと飲み込んで、博士は答えた。
「女王のように美しく、気高く、悪魔のように残酷でもある。一口で言ってしまえば簡単なんだ。誰でも知っている整数、1、2、3、4、5、6、7……の関係を勉強していたわけだ」
女王などという、物語に出てきそうな言葉を使ったのが以外だった。テニスボールの跳ねる音が遠くに聞こえた。ベビーカーを押す母親も、ジョギングする人も、自転車に乗った人も皆、私たちの前を行き過ぎる時、博士に気付いて慌てて目をそらした。
「その関係を発見していくのですね」
「そう、まさに発見だ。発明じゃない。自分が生まれるずっと以前から、誰にも気付かれずそこに存在している定理を、掘り起こすんだ。神の手帳にだけ記されている定理を、一行づつ、書き写してゆくようなものだ。その手帳がどこにあって、いつ開かれているのか、誰にも分からない」
(中略)
博士はベンチの下に落ちていた小枝を拾い、地面に何か書き付けていった。何か、という以外、表現のしようがないものだった。数字があり、アルファベットがあり、秘密めいた記号があり、それらがまた連なりあって一続きの形を成していた。発せられる言葉の意味は一つとして理解できなかったが、そこには確固たる筋道があり、その真ん中を博士が突き進んでるのは分かった。堂々として威厳があった。散髪屋で見せた緊張は消え失せていた。枯れかけた小枝は、博士の意思を休みなく地面に刻み付けていった。いつしか二人の足元には、数式で編まれたレース模様が広がっていた。

先人が苦心して編み出した本物は、どんなものであろうと理路整然としていて、素人にでも美しいと分かるものなのだ。…とはいえ、数学者のわけのわからない公式どもをここまで夢を持って書ける筆者には脱帽だ。花見川は「数学って何がおもしろいの?」と聞かれ、うまいこと答えることが毎回できず、もどかしい思いをしているというのに。
ただし、この物語は数学に関しての小説というより、数学者を通じて純粋さ、愛情深さを伝えようとしている。

彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったからだ。
「おお、なかなかこれは、賢い心が詰まっていそうだ」
髪がくしゃくしゃになるのも構わず頭を撫で回しながら、博士は言った。友だちにかわかわれるのを嫌がり、いつも帽子を被っていた息子は、警戒して首をすくめた。
「これを使えば、無限の数字にも、目に見えない数字にも、ちゃんとした身分を与えることができる」
彼は埃の積もった仕事机の隅に、人差し指でその形を書いた。

冒頭部分の引用だ。博士のやさしさが伝わる一場面。
目の前の子供に、”√”という大事な勲章を与えることで、自分が「ちゃんとした身分」を持っていることを再認識させ、安心を与えた。見ているこちらも暖かくなる。

話は変わるが、この小説は非常にまとまっており、日本では今まで無かったタイプの小説であることは間違いないだろう。ただ、点数が少し低めなのは花見川が数学好きで「うんうん」と納得できる部分が非常に多かったのだが、こころの琴線に触れるような部分が少なかったからだ。数学的な感動が身近にあったからだろうね。逆を言えば数学ギライな人がこれを読めば、多くの部分で新鮮だろうなとは思う。なんだかんだ言っても、結局はおすすめ。以上。