アニメ版エルフェンリート

ヤンジャンに連載にされていた『エルフェンリート』という漫画がある。
典型的萌え美少女がわんさか出てくるので、一見「タダの萌え漫画か」と思われるかもしれない。かくいう自分も最初見たときにドジッ娘秘書が出てきて、お茶を「あわわわわ〜〜」とか言いながらこぼす様に「勘弁してくれよ…」と思っていたが、その数ページ後にヒロインに首ねじ切られて血を噴水のように飛び散らせるとは思いもしなかった。
この漫画の特徴として人がポンポンと花火のように死んでいくので毎週誰が死ぬのか予測がつかず、裸のヒロインが『ベクター』という超能力を使って老若男女関係無くバシバシと殺していく様はある意味新鮮で、連載もそれなりに続いた。(現在はもう終了)
で、アニメ版が出ているということは小耳に挟んでおり、Youtubeにアップされていたのも知っていて、やっと今回見たわけですが……これは凄かった。
・原作より洗練されている(いろんな意味で)
・OPがすごい
・テーマがほぼ一貫している
という三点が非常に際立ってる。

以下ネタバレ

程々にやりすぎている

まず第一話で秘書の首が飛ぶ場面。ドジッ娘秘書が無惨に死ぬだけでも衝撃的なのに、今回はさらにその死体をマシンガンの弾幕の盾としても使う始末。多少やりすぎな感もあるが『毒を食らわば皿まで』方針を追求してくれていて、それはそれで正しいと思うし、こちらとしても嬉しい限り。

OPがすごい

自分の発想力が貧困なのかもしれないけど、結果的にあれだけ美術造詣的かつ象徴的なOPをやるとは思わなかった。最初にルーシーが首の無い異形の像と抱き合ってるが、これってルーシーに殺された人間たちの象徴だよな? 個性を消失させたデザインの像と抱き合っているということは、殺された不特定多数の人間たちとのコミュニケーションを意味する。つまり、ヒロインのルーシーは人間たちと『殺したり』『壊したり』することでコミュニケーションを取っていたということだ。これはアニメ版における一種のキーワードになると言える。というのも『愛』というテーマで一貫しているからだ。
こういう理論がある。
「『友情』とは『愛情』の抑制されたものであり、同性愛などはそれがただ抑制されていないだけ」
愛情も友情も基をたどれば人間交際から発展したものであり、本質はコミュニケーションなのだ。

父(養父)、娘、義理の娘の親子愛

ところで、物語完成の直前である蔵間、ナナ、マリコのやり取りが秀逸だ。ある意味裏側部分のエンディングと言ってもいい。コウタとルーシーの愛が肉親殺害の因縁を越えた異性愛であるのに対し、こちらは家族愛がテーマだ。殺人鬼マリコが父親の蔵間の前ではただのか弱い娘に変貌し、生まれたときに殺さなければならなかったマリコを今まで生かした責任(大量殺戮)を取るために手をかけようとする蔵間。
今の今まで何のためらいもなく同僚の胴体を引きちぎり、首を跳ね、むしろそれを楽しんでいたようなマリコが実の父親を目の前にした途端、「今までお父さんとお母さんが迎えに来てくれるのをずっと待ってた…」と涙を流しながら話し、「おと〜さぁ〜ん!!おとぉさ〜〜ん!!!」と泣き叫ぶんですよ? 実の父親が耐えられますかこれ。
ここで義理の娘(育ての娘)であるナナが二人のやり取りを見て心配し、「パパもう止めようよ…」と止めに入るわけだが、そこで『パパ』という言葉を聞いたマリコが激昂。「ずっとマリコを独りぼっちにしておいて!」とナナに手をかける。次のやり取りがすごい。

マリコ「ねえお父さん、そのお姉ちゃんが死んだ方が悲しい?」
蔵間「うっ……」
マリコ「答えられないなら試してあげるね。」

実の娘に、育ての娘。どちらを取るなんて選択が答えられるわけがない。しかし敢えてこの作品を通して製作者はそれを問うているのだ。
ナナが殺されそうになった蔵間は今まで構えていた銃を捨て、「来ないで!」と連呼するマリコへと向かい、抱きしめる。そしてマリコから様々なものを奪ってきた罪を認め、「これからはずっと一緒だ」*1と受け入れる。ここで初めて『本当の親子』になったと言える。
いくら自分の娘が大量殺戮しようと、人類を滅ぼす存在であろうと、やはり娘は娘なのだ。

親子愛の対比としての異性愛

最初、ヒロインは他人に対して『殺す』というコミュニケーションしかできない。後にヒロインは「にゅう」という無垢な仮面を被り、他人に全く危害を加えない反面、一切言葉を喋らなくなる。しかし回を追うごとに「にゅう」は言葉を覚えていき、表現も多彩になっていく。一方でヒロインの本当の人格である「ルーシー」も凶暴性が薄れていき、だんだん『殺す』ということをしなくなっていく。「にゅう」と「ルーシー」の部分での双方向での成長が描かれているのだ。では成長を促しているのは何か? もちろん『愛』だ。
最終話では成長の最終段階として、仮面の人格である「にゅう」が本当の人格である「ルーシー」に統合される。そして何人もの人間を殺してきた殺人鬼はひとりの女性に変貌する。
クライマックスの場面で、ルーシーが5年で人類を滅ぼす存在であること、唯一楽しかった思い出がコウタとの思い出だけだったと泣きながら告白する。
ルーシーが去ろうとしたときに、

コウタ「行くな!」
ルーシー「なぜだ!? 私はお前の家族を……」
コウタ「わからないよ!」

そして家族を殺したのは許せないが、それでも「ルーシーが他人を傷つけるのを見ていられない」と不器用に止めるのだ。さらに『幼かった頃のルーシー』、『にゅう』を好きだと言う。「ルーシー全て」を認めたのだ。
そう、世界を滅ぼそうと、身内を殺していようと好きな人には代わりは無いのだ
『愛とはエゴイズムを伴うもの』『他者を無条件で認める』という土台は先程の親子愛の場合と同じだが、この場合は『異性愛』だ。最終話においてこのような美しい対比を持ってこれる製作側には脱帽。
というか原作版よりも明らかに上じゃないですかこれ。

というわけで

アニメ版のエルフェンリートは素晴らしいということです。
まあグロいのが苦手な方も多いわけでして、あんまり薦めることは致しません。いや、ホントグロいんで。(実際15禁だし)

物好きな人だけ以下のリンク見てくださいな。
エルフェンリート全話

*1:マリコが死ななければならない存在である以上、自分も死んで受け入れるということ