「リアル主義」と「ネット主義」の対立など不毛

トラバは来てないのだが、うちの記事を用いてこんな記事を書いてる方が
こころ世代のテンノーゲーム - 「リアル主義」者は現実的か――オフ会なんてリアルじゃない!

「コミュニケーション」という分野において、こないだのエントリの重要性の根幹を否定する論理のため、反論させていただく。

ネットよりもリアルの方が情報量が多い


第一の問題は、そもそも全人格的な交流など現実的に実現不可能なものであることです。
というのは全くもって同意なのだが、

「リアル主義」の方々は、オフで会うことがいかにも「全人格的な交流」であるかのごとく考えているようなのですが、そんなものはオフ会のような「ネット―リアル型」のつながりにおいてどころか、一般的な「リアル―リアル型」のつながりにおいてもなしえません。


だいたい、会話=発話ほど人間の表現能力を物理的に制限するものはありません


いわんや、「つながり」程度の時間で交わされる会話などに、いったいどれほどの情報がこめられているというのでしょうか?


例を挙げれば、それはネットニュースとテレビニュースの体感差、知覚差と同じです。


ちんたら長たらしいくどいテレビニュースから一体どれほどの情報量が得られているのでしょうか?


同じ時間でネットのニュースに接すれば、最低でもその2倍から3倍の情報量を得ることができるでしょう。

「「飲みニケーション」こそが本当のつきあいだ」(関連:花見川の日記 - 酒を飲ませる人の心理)などというゴタクがゴタクであるゆえんもまた同根です。

ここにまず驚いた。
まず、他人が実際に会って会話する、交流する事に対して情報量が少ないと主張している。つまり、「コミュニケーションの全てが言葉のやりとり」と考えている。これは大きな間違いだ。




わかりやすい例を挙げると、もっとも濃密なコミュニケーションの一つは「殺し合い」だ。




命のやりとりをする相手とは会話をしているヒマなどないし、そもそも会話なぞ成立しない。
では何故「コミュニケーション」になるかと言うと、目線、足、手、体の軸の動きや、さらに相手の心も察知して如何に自分が殺されずに、相手を倒すか、ということをお互いにやっている。相手を「しっかりと見ている」わけだ。そして、その情報を基に自分が行動し、それを察知した相手がまた行動を変える。まさに膨大な情報量をお互いに処理している。




日常の会話においてもこれは共通していて、会話に加え、目線、表情、仕草、立ち位置、行動、発話のタイミング、雰囲気などの膨大な情報量がある。決してテレビをのんべんだらりと見ているようなモノではなく、非常に動的だ。

これに対してネットでのやり取りは静的で文章でしかできない。ネットでの「言葉における情報量」はそれなりに多いが、リアルは情報量のパラメータが段違いに多い。また、「書く」行為と「話す」行為を比べれば、単位時間内での情報量の多さは圧倒的に「話す」方であり、「言語」のパラメータにおいてもネットはリアルより劣る可能性がある*1


ここで「ネットでは有益な議論が出来るはず。日常ではたわいも無い話しかできない」という反論があるかもしれない。それは自分の周りに有益な議論をできる人がいないだけである。ネット上は全員が全員議論してるのかと言えばそうではなくて、2chのニュース速報板やVIP板に行けば「たわいも無い話」をしている人間は大勢いるし、逆にリアルの側で「議論のできる人」を何人も見つければ、上記で述べたようにネットよりも有益な交流が出来る可能性が高い。(本人のスキルにもよるが)
だから、例のオーマイニュースの記事は「相手」を見つける、という意味合いだったのでしょう。

自分のできないことを「訓練する」という発想

失礼な言い方かもしれないが、umetenさんは「一般人なら訓練しなくても出来ること」と「一般人なら訓練しないとできないこと」を混同しているように見える。


また、「リアル主義」者が言いそうな「実際に会えばその人の背景や現実を知ることができる」などという考えも、ゴキゲンにお花畑な考えというものです。
「実際に会えばその人の背景や現実を知ることができる」という知覚は、リアルという場で、先程述べたような他人ないし自分の「雰囲気」「仕草」などを十二分に研究し、多くの時間を割き、訓練し続けて初めてできることでしょう。*2


自分は大学に入ってからずっと合気道やっているのだけど、3年生のはじめごろにやっと、手を捕まれたときに「相手の力がどういう方向に向いているか」を知覚できるようになり、多少力の強い相手に腕を捕まれたとしても、ラクに相手を制することができるようになった。この「相手の力の方向を知覚する」という能力は天才でもない限り、数年間訓練しないと身に付かない。

「実際に会えばその人の背景や現実を知ることができる」という能力も同じはずだ。
そしてそれを身に付けるにはリアルで訓練するしかない。


自分ができないからと言って、それを諦め、トンデモ扱いするのはどこかズレている気がする。


むしろ、オフ会に参加するからには、なにがしかの「お土産」を持ち帰りたいというのが偽らざる本音ではないでしょうか?
オフ会はまさにそのような訓練ができるという意味で有益である。さらに、ここで言うオフ会での集団は先程述べた「議論できる人たち」のはずであるから、そのような方々とリアルで交流できるというのはかなり貴重な体験、いや訓練ではないのか。

まとめると

リアルがネットを補完し、ネットがリアルを補完するという循環が理想。
自分の場合は「言葉」や「文章」、「議論」などのことばの部分の訓練としてネットを用いているが、どこかでリアルに還元できるのではないか、と考えて日々ブログを書いている。


「リアル」と「ネット」の対立など不毛であり、どちらも「リアル」にできるのが理想でしょう。



関連:花見川の日記 - 「ネット≒静的」に対する「リアル≒動的」

*1:リアルでは「空気を読む」という行為があるので「可能性がある」という表現をしておく

*2:もしくは、自然と訓練できるような環境で本人も知らないうちに身に付けるというケースもある