「ネット≒静的」に対する「リアル≒動的」

こういう反論を頂いた。
fujixeの日記 - ネットでのコミュニケーションもまた言葉だけではない、はず

もちろんリアルな世界の住人はそう思うのだろうが、ネットの人たちはきっと、ネットなりの情報量を読み取っているはずだと思う。それが見えていないだけかなと。


つまり、

失礼な言い方かもしれないが、umetenさんは「一般人なら訓練しなくても出来ること」と「一般人なら訓練しないとできないこと」を混同しているように見える。
というのが、この方にもそのまま当てはまるのではないか。


例えばその人がはてなを使っているのか楽天ブログを使っているのかあるいは自分でサーバー立ててるのかとか、デザインに気を使っているのか、CSSいじってるかとか、アフィリエイトやってるかとか、どのサイトにリンク張っててどっからリンク張られてて、とか。


まあ一般人以下である私が考えつくのはそんな感じだけど、訓練すれば見えてくる「パラメータ」とやらが色々とあるという意味では同じなんじゃないかなあ。

id:fujixeさんが言いたいことはなんとなくは解るのだが、「コミュニケーション」という行為に限定すれば、リアルとネットが「同じ」とは言えない。
前にも述べたが、「ネットが静的」で「リアルが動的」だからである。

コミュニケーションの「パラメータ」

ミクロな視点から見れば「文章」というのは非常に静的で、ごちゃごちゃと動き回るようなモノではない。そして、ネットの大半は「文章」から出来ている。
「文章」に接するということは頭で考える時間が与えられていなければ、「文章を読む」という行為が成立しない。*1 それゆえに静的と言えるわけだが、文章を読んでいるときに何らかの困難、例えば、ここの単語がわからないとか、ここの文章の趣旨がイマイチ把握できないだとかいうことが起こったとする。そんなときは検索するなり、多少考えれば解決してしまうことが比較的多い。いうなれば勉強すれば、だいたいは解決する。


ただし、「文章」のように静的な対象ではなく、動的な対象の場合はどうだろう?



日常の会話においてもこれは共通していて、会話に加え、目線、表情、仕草、立ち位置、行動、発話のタイミング、雰囲気などの膨大な情報量がある。決してテレビをのんべんだらりと見ているようなモノではなく、非常に動的だ。
こないだのエントリで挙げた例であるが、赤字の部分の例はどれ一つとして静的ではない。「表情」ひとつにしても状況は目まぐるしく変わり、「文章」とは違い、与えられる側には十分な時間など与えられていない
例えて言うなら、静的対象が「点」であれば、動的対象は「線」である。


もうすこし具体的に述べると、
静的対象:情報量(a)
とおくと、
動的対象:情報量(a)→情報量(b)→情報量(c)→……
といったところか。
つまり「直面してから対処を考える」という方法ができない。だから、「勉強」ではなく、その場で瞬時に体が動くような方法を身につけているのが最善であり、それこそが訓練なのである。「勉強」では非常に対処が難しい。


ここでid:fujixe氏が挙げた例を見てみよう。


例えばその人がはてなを使っているのか楽天ブログを使っているのかあるいは自分でサーバー立ててるのかとか、デザインに気を使っているのか、CSSいじってるかとか、アフィリエイトやってるかとか、どのサイトにリンク張っててどっからリンク張られてて、とか。
「どのブログを使っているか」「デザイン」「CSS」……、これらの例はすべて静的である。
そして、自分の体を瞬時に動かす「訓練」ではなく、知識の習得という意味での「勉強」で済んでしまうことばかりだ。(あくまで「コミュニケーション」という限定の上だが)

つまり、


訓練すれば見えてくる「パラメータ」とやらが色々とあるという意味では同じなんじゃないかなあ。
パラメータがいろいろあるという点までは同じなのだが、リアルだとその「パラメータの中身」の次元が違うのだ。だからこそ勉強ではなく、訓練が必要なのである。

*1:一部例外は除く