自分の好きなことから近づいていく、という手法

最近、”勉強する”とか”学習する”ということについて、自分がいま最も気に入ってるモノから入っていく方がいいんじゃないかな、と思うようになってきた。


わかりやすい所でいう「本は好きなものから読め」とかそういう類の話なのだが、これは『好きなもの』というより『必要性を感じたもの』と言い換えた方が自分の考えに近い。喩えで言うなら、「手につけたもの(今好きなもの)はしゃぶるだけしゃぶり尽くして、味が無くなったら次(必要性を感じたもの)に移る」といったイメージ。必要性を感じているからこそ、義務感を感じてやるよりも苦痛が少ないし、なんにしても『好きなものの後継者』なのだから、好きになる可能性が非常に高く、熱中しやすい。「そんなん当たり前だろ!」といわれたらそうなのだが、重要なのは、その『好きなもの』がどんだけ社会的な地位が低かろうと、周りがやることに反対しようと、やり続けることに意味がある、という点。


分かりやすい例で言うとエロゲとかで、よく言われるのが「本質的には文学」。源氏物語なんざ「幼女育てて自分好みの女にする」とかエロゲ顔負けのブッ飛んだ話が出てくるし、本質的な差異は無い。
「は?文学? エロゲなんざやってる奴同士にしか話せないし、そんなもん一般人との話のネタに使えるわけねーじゃんプギャー」と思われる方もいるかもしれないが、それは別の話。そもそも、そんな”一般人”は『本格的な文学』も読んでない人が大半であるため、そのテの話を種にするのは得策ではないのだ。そういうタイプの人間と仲良くしたいのなら、本質的に別のモノを身に着けるしかない。(それがダメなら諦める)


でだ、じゃあエロゲやって何か得るモノあるのかって話になれば、ある。
文学と比べて歴史も浅いエロゲ界隈だと、作品鑑賞してるうちに全ての作品を消費してしまうのも早い。と、なると文学の方に手を伸ばしていろいろ味わってみるのも良いわけで、文学の方に手を伸ばしているうちに、さらに良いものを読むために古典に手を伸ばしたり、外国の作品を読むために語学に手を伸ばすということもあり得る。それとは別に作品の批評めいたことをやってるうちに、評論とかそっちの方向に興味を持つというベクトルだってある。結局は全部つながっているため、現時点で自分の興味を持ってるモノに対しては、満足するまでとことんやっておいた方が自分のためだ


で、しつこく繰り返すが、ここで最も重要なのが自分の好きなものに対して正直であること


「エロゲやってるから自分はダメ」とか「こんなものやってるから……こう巧くいかない」と考えるのは非常に良くない。さっき述べたつながりを通じて様々な世界へ飛躍するには『満足する』という事実が必要不可欠であり、満足しないうちは別世界への扉は開かれない。今自分のやっていることがどれだけ矮小で卑属でくだらないモノであろうとも、それを続けることがいちばんの近道だったりする。だってそれが好きなのは紛れも無い”自分”であり、無意識下であれ選んだのは”自分”なのだ。だから自分の趣味を否定するということは、遠まわしに自分を否定しているのと同義であり、自分と自分がケンカしているため、他の物事にも悪影響が出たりする。これは良くない。
だからこそ、「自分は何故それが好きなのか?」「自分はなんで趣味を否定しようとしてるのか?」とかを十分考える必要がある。(それをやらない状態を「自分に嘘をつく」という)




……以上の文章は「ネットにのめり込むことは不毛なのか?」とか考えていたら思いついた。案外言い訳にしては出来が良さげなのでupしてみた次第。
というわけで、自分はもう少しネットにのめり込んだままになりそうです。