”ネット”に送り込まれた『自分』

ともむーんさんの話を別角度から書いてみる。
バッドエンドとハッピーエンド - 月がでたでた月がでた


バッドエンドをバッドエンドだと書く自分にさらに惨めさを感じそうだから、バッドエンドを無理矢理にでも脳内でハッピーエンド(エンドじゃなくても、ハッピーな状況/ハッピーじゃなくても、ノーマルな状況)に変えて書く。喋る。発信する。

これって「逃げ」なのかな。

変な話になるんだが、この文章を見て思い出したのが、ドラゴンボールの人造人間編。


悟空が心臓病で死んでしまい、人造人間達が殺戮を楽しんでいるような荒廃した未来で、ブルマがタイムマシン作り出して息子のトランクスを過去に送り込む……のだけど、そこで未来が変わるよう行動したとしても、別次元の未来が出来るだけで、「送り込んだ側」の未来は決して変わることが無い。早い話、自分たちの世界は救われないのだ。
でも、そこで敢えて多大な労力を払ってまで別次元の未来を作ろうとしたいのは何故か?と、息子のトランクスがブルマに聞くのだが、そこのブルマのセリフが印象的で、


「人造人間が倒されて平和な世界が一つくらいあったっていいじゃない。やられっ放しじゃ悔しいもの。」
というもの。





このブルマのセリフと「無理やりハッピーエンド」を書く人達が何だか被る部分があるように思える。
部分的に言い換えてみれば、


「私が幸せな世界があったっていいじゃない。(リアルで)やられっ放しじゃ悔しいもの。」




そういう風に自分には聞こえるのだ。

リアルへの反撃

id:natu3kanさんがブクマコメントで、


# 2007年03月30日 natu3kan natu3kan 物語 それは逃げではなく物語ですよ、とかいってみるテスツ。
と述べているように、厳密には創作行為なんだろうと思う。
「限りなく”自分”に近い人物(もしくは自分の分身)を主人公とした物語」がWeb上の文章そのものであって、その主人公が幸せになることで、自分も幸せになる(ような気がする)ということだろう。「リアルの私は不幸なのかもしれないが、ネットの私は幸福だよ。リアルめ、ざまあみろ!!」という感覚というべきか。


これが自覚できて書いているケースなら特に問題は無いのだが、自覚できてないケースはリアルで相当追い込まれている状況が予想される。が、どちらにしても自分の書いているものを自覚し、最終的にこれが「創作」まで昇華できれば占めたモノではある。
それが「他人からの高い評価」を得たり、「自分の納得のいくモノを書く」という目標ができれば、リアルへの十分な反撃へとなるのだから。




余談だが、さっきのドラゴンボールの話では、トランクスが過去に送り込まれたことで、トランクス自身が人造人間を倒すほどの力を得ることとなり、結果的に荒廃した未来を救うこととなる。(それまでに死んだ人間は戻ってこないので、ベストとは言えない部分はある)




ネット上に自分の分身を送り込むことで、結果的に自分を救うだけの力を得ることが出来れば、それが本当のハッピーエンドになるのかもしれない。