分析しないことで作る”信用”

コメント欄荒れ気味にするのもアレなので、こっちで返答。
Say::So? - らしさを規定することに意味が見出せないのだが - コメント欄

takisawa takisawa 『これ、「人」という集合体については無条件に認めているようですが、それには疑問は持つ必要がないのでしょうか?
もし、その「人」という集合体についての分類や属性を無条件に認めないとするならば、それに付帯されることになっている「人権」も疑問符がついてしまうことになると思いますが。』 (2007/05/31 04:39)

ch1248 ch1248 『>>人が先にあるのだ。
その通りです。
「客観的」もしくは「科学的」という言い訳を付けて、「人」をないがしろにする人って結構いますからね。自分も「人」なのに。

■瀧澤さん
横槍失礼。

びーせいそーさんは「『人』を重要視すべきだ」ということを第一に言いたかったんだと思いますよ。「物事を集合体として見る視点」についても肯定してて、「人そのものを分析対象にするな(人を集合体として見るな)」とは述べていないはず。』 (2007/05/31 05:26)

takisawa takisawa 『いや、だから、なんで「人」を分析対象から排除できると考えているのかを質問しているのです。
それが可能ならば、「日本人」でも「朝鮮人」でも「おうし座生まれ」でも、可能になるでしょう。
「人」が何故に他の生物と分類されていると思っているのですか?
そこには「人間らしさ」という「理性」や「コミュニケーション可能性」というフィクションが織り込まれているからなんですよ。
ならば、この「人間らしさ」を前提としないならば、「人」と他の生物の違いはどこにあるのか、という話になります。
『人』を重要視すべきだ、というならば、その「人」の根拠は「人間らしさ」以外にあるんでしょうか?』 (2007/05/31 05:42)

「『人』を分析対象から排除できるという”事実”」ではなく、「『人』を分析対象から意図的に外すという"手法"」です。
分析対象には出来るんですが、分析対象から敢えて外す、もっと端的に言えば「考えない」という”技術”を応用しているわけです。

今回のケースでの応用だと「他人に優しくなれる」ってメリットがありますね。



『人』を重要視すべきだ、というならば、その「人」の根拠は「人間らしさ」以外にあるんでしょうか?
ちょっと電波っぽくなりますが、その人が『人』と認めれば人です。そう思い込むことができれば、というか。
逆を言うと、俺が「人間に近い思考を持ったロボット」いわゆる哲学的ゾンビではないという保障は無いですよね。


そこは瀧澤さんのある種の”信用”があるからこそ、話が成り立っている。
(注:自分が普段から瀧澤さんと交流しているから、という意味ではない。瀧澤さんが自分とこのはてダでコメント返答してるのも、相手をある種”信用”してるから出来ること。)


ちなみに「分析」という手法は前提として「疑問」「疑い」「無理解」というものがあるから、例えばコミュニケーションとは相性が悪いんですよね。
だからそこに「考えない」という手法を用いて、自分に対して”信用”という状態を作る。むしろ、コミュニケーションに関してはこの状態を作らないことには成り立たないとは思います。




ただ、分析という手法も非常に重要な手段なので、それをないがしろにしろと言ってるわけではありません
分析という手段があまり有効で無いケースもあるので、そこは他の手段、今回で言うような「分析しない」という手段を使おう、ということです。


状況によっては、また後で追記します。