自分の好きなものを肯定する手法

ここ最近、朝から夜の10時までバイトやり続けてて、まだ慣れないものの、かなり丁寧に教えてくれるので必死に喰らい付いている。なんつーか、ここ五日間がだいたい半月ぐらいに感じる程度の高密度な時間を過ごしており、まあそれはそれで幸せかなとか考えている昨今。


で、バイトやる前の数ヶ月間はひきこもってネットばかりやっていたせいで、バイトの同僚と話していると感覚のズレが少しある。
「誰か好きな人いるんですか?」とか「気に入っている芸能人とかいます?」とか「カラオケとかよく行きます?」とか、ネットじゃつまらないことと切り捨てられるような話題がごく”普通”に会話の中で出てくる。高校生ぐらいの頃は「それの何が面白いんだ」っていう感覚を持ったのだろうけど、今の自分はそういう話をしていると、なんだかホッとする。おそらくそれは、”普通”であることの安全感、マジョリティに包み込まれてる安心感だと思う。

一般人のオタクの定義

急に話が変わるが、よく一般人の言う「○○くん(さん)ってオタクっぽいよねー。」という”オタク”というのは『オタク』ではない。一般人の言う”オタク”はおそらく身内内で偏っていると判定された人間なのだろう。
よく言われる『オタク』の定義はゲームやアニメ、アイドルなどのいわゆるサブカルチャーに傾倒した人間のことを指すんだろうが、サブカルチャーに傾倒していたとしても普段の生活をちゃんとこなせていれば、何の問題も無かったりする。一般人はその人を”オタク”とは呼ばないだろう。


もう一度言うが、一般人の定義における”オタク”とは偏った人間*1のことだ。



早い話、非コミュ非モテ傾向のある人間のことをまとめて”オタク”って呼んでるんだろうな。(乱暴な話だが)

偏った人間問題の解決策

全国の中高生は「俺はオタクじゃない!」と似たような問題で悩んでるんだろうけど、これを解決するのに脱オタとかやる必要は無い。


人に興味を持てば良いだけだ


異性を好きになっても良いが、同性の友人や知人でも良いし、親兄弟でも良い。人そのものに興味が持てれば良い。「こいつ面白えな」と意識が向けば良いだけだ。
逆を言えば”一般人”と呼ばれている人達はもともと他人に興味があったと言えるからこそ、一般人なのだ。そして、芸能の話だの、音楽の話だの、カラオケだのという”ツール”は人と関わりあうための最大公約数的な趣味というか、いうなれば人間交際において最も能率の良いツールである。


でだ、重要なのはここから先で自分が本当に好きなモノ、例えばオタク趣味であっても、自分を磨くツールとして使える可能性があるという点。
自分が本当に好きなことは”他人と関わるための道具”からより上の”自分と関わるための道具”、より具体的に言えば”自分を磨く道具”として使うことができる。*2 その領域まで行けば、自分の好きなことをやっている自分に対してちょっとした自信も持てるし、誇りのようなものも持てるようになる。逆を言えばそれが持てなければ本当に好きとも言えない。


で、さらに高みへ行こうとすれば、どうしても他人の力が欲しくなってくる。そっちの方が効率良く自分を成長させれるからだ。
また、多くの人間が従事している趣味、ファッションや音楽だのカラオケだのといった人口の多い趣味というのはそれだけ様々な技術論があったりする。
もし、自分の趣味がマイノリティ的で人口が少なければ、そういう技術を”輸入”して自分の趣味をどんどん高度化させていけば良い*3それだけ趣味が高度になれば、自分も高度になるため、自己の成長につながるわけだ。

マジョリティを有効利用する

話を最初に戻すと、そういうマジョリティが使っている方法論*4をどうやって自分の好きなものに輸入したり、応用したりするかとか考えてると人生すげー楽しいんですよ。


だって、そういうこと考えてるってことは日常や仕事中に自分の好きなことをやってるってことに等しいのに、それでもマジョリティから認められるっていうWin-Winの関係があるんですよ。「自分はマイノリティだけど、マジョリティの中にいる」っていうのかな。すごい安心感がある。
俺のケースでの具体例を言うと、ウェイターやってて配膳のときに合気道の理屈使って体のバランス良い配膳やって「お、いいね」とか言われたらすげえ嬉しいというか。


……とまあ、色々書いてたら随分と長くなってしまったのでキリが無いので止めることにする。まとまってないが許せ!!

*1:ただし、偏った人間が悪いというわけではない。人は皆どこかしら偏っている。

*2:俺なんかはブログと合気道がそうなるが

*3:ちょっと難しいけど

*4:まあ別にマジョリティでなくても良いのだけど