自分のブログスタンス

y*m-tx*oinu - いやなんかごめんなさい
mutronixさんへ返答。この際なんで自分のブログスタンスも表明しておこうと思います。

客観的に見つつ、「自分」を入れて発言する


 そうではなくて、ことさらにあるコメントを「横槍」として選別しようとしてるセンスに「ん?」と思ったってことなんです。
おそらくmutronixさんが言いたいのは、「ネット上のやり取りを行う上では客観的であるべき」ということですね。
もっと突っ込んで言うと、「人の発言にムダに感情移入してしまうと、それがノイズとなってしまいちゃんとした意味が取れなくなる。だからこそ、悪意とか善意とかそういう部分は敢えて捨ててしまう、すなわち論理的な姿勢をとった方がネット上のやり取りにおいては効率が良い。」ということでしょうか。


で、このスタンスのことを”メタ”と仰ってると思うのですが、この姿勢は嫌いというわけではなくて、俺もよくこういう「メタ視点」や「メタ言及」はよく活用しているし、非常に便利なので嫌いではありません。むしろ好きなぐらい。


ただ、「客観的な視点」で純度の高いデータを手に入れたり、「論理的な分析」で良さげな論を手に入れるのは良いのですが、俺はそれだけでは足りないと考えていて、そのデータや論を実践するにはどうするか、ということをよく頭に入れてます。で、実践するのは誰かと言えば”自分”しかいないわけで*1、「客観的な視点」や「論理的な分析」を行った後には必ず”自分”を省みるようにしています。(自分の立ち位置とか、自分がそれを主張・観測することでどんな影響があるか、とか)


人がモノを観測するなら特に問題ないんですが、人が人を観察する場合はどうしても「観察という行為」が対象を影響を与えてしまいがちなんですよね。なんか、量子物理学で対象物を観測しようとすると、「観測」という行為が対象に影響を与えてしまうせいでファジィな実験結果しか得られないのと似ていて、繊細なものを扱うときは「観測者」すなわち「自分自身」を考慮に入れる必要があるんじゃないかな、と。
んで、通常の「客観的な視点」というのは観測者の存在は「ない」ということになってるので、俺が客観的なように見えて「自分自身(観測者)を入れた理屈」を使っているから、「ん?何か変なノイズがあるな。」と感じてもおかしくは無いわけで、mutronixさんが違和感を感じた原因の1つはこれかもしれないですね。


「自分の立ち位置の表明」も考慮に入れてるので、


setofuumiさんとch1248さんの話を見ていて思ったことをざっくりまとめますと、setofuumiさんが「おれはAと思うしそのことをある程度の範囲で言うよ」と言っているのに対して、ch1248さんは「Aって言ったってことで、おれはお前を敵とみなしちゃうけどいい?」みたいな返し方をしているような印象を持ちました。
という見え方にもなる部分もあるのかな、と思います。

感情の排斥と利用のハイブリッド


自分の感覚では、他人の言及やコメントっていうのは、もっとフラットなものなんですよ。それに悪意が込められているかどうか、とか、そういうのはわりとどうでもいいんです。実際に悪意が込められていることもあるだろうけど、悪意が込められているからといって、その文字が突然赤青に点滅しだしたり、拳の形に変形して相手を殴ったり、みたいな、すごい実害を与えてくることはないわけで、それは一定のサンドボックスに入ってるということだと思ってるんです。
これは「”他人の言論をフラットなもの”と定義することで自分への心の負担を減らし、本来の意味を読み取りやすくする。」というやり方ですが、俺にとっては”悪意”とかの「その人への印象」みたいなものが議論においても結構影響を与える部分があると考えていて、非常に良い印象を持っている人の言うことというのはスムーズに頭の中に入る。実に素直に入っていく。逆に悪い印象を持っている場合だと、どれだけ素晴らしい論を並びたてられてもやはり頭に入りにくい部分がある。どうしても悪い感情がノイズになる部分がある。
「だからこそ客観的視点で感情消すべきだろ」と思われるかもしれないのですが、それは半分正解だけ正解だと考えてて、
これは役に立つ意見だな、と思った場合、


自分が、その人に悪い印象を持っている場合は客観的視点で消去する方向へ仕向け、良い印象を持っている場合であれば感情的視点で理解を増幅させる方向へ仕向ける、というのが最良な方法だと考えてます。


で、どうしても悪い印象が抜けない場合は時間を置いてから検討し直したり、どうしてもダメな場合はその理屈は捨てる。自分の感情がどうしても嫌がってるものを無理に飲み込ませようとしても、「好きこそものの上手なれ」というように、それはあまり身になるものでもないし、それに対して時間をかけるよりも他の飲み込みやすい理屈を探して代用すればいい、というのが俺の持論です。早い話、「感情”も”有効利用しよう」みたいな話。
まあそれでも悪意とかそういうものはなるべく無い方が良いので、その部分を指摘した節はあります。



客観的視点が身に付いていても、人間である以上ある程度は感情に左右されるのは逃れられないわけで、


まぁ「変な横槍入れてきやがって」と思うのは、自分だって思う(状況によってはもっと嫌な感じの印象を持つときもある)わけですけど、それを敢えて言語化して、「あなたは横槍を入れてきたとおれは認識しましたよ」と表明しても、対話にそういう構えができてしまうだけで、話をするうえで邪魔だと思うんですよね。
についても、印象について表明することは「話をする上で邪魔になる」とは限らない、と考えてます。状況に応じてはアリというか。*2

「横槍」という表現について

今回のmutronixさんとのやり取りは関わるのは今回が初めてだし、周りでこのやり取りを見ている人も何か特別な文脈を読む必要も無いわけです。このエントリは物理的にも心理的にも開かれていることになる。
ですが、瀬戸風味さんとのやり取りは3ヶ月以上前の話から遡ったりしている部分があったり、さらにその過去のエントリやブクマに関する文脈の理解も必要と言えば必要であるし、お互いにしか知らない文脈やら何やら*3とかもあるので、正確な理解をするのであればその辺りも知っていないといけない。でもそのことを書けば膨大な記述になるし、お互いに今述べてることをやり取りするだけで精一杯で、そもそもその辺りを書く必要性もあるのか、と言った話になる。だからあのエントリ群は物理的には開かれているけど、心理的・意味的には開かれていない部分があって、
「とりあえず見るのは勝手だけども、見えない文脈を追わずに何かクビ突っ込むようだったら、ノイズ(=横槍)と判断するよ。」
というスタンスを取ってます。少々イヤな言い方をすれば、「わかっていないのにクビ突っ込まれても困る」というか。


ブログというものが物理的に開かれてる以上、その辺りは最初に書いておくべきかもしれないのですが、面倒くさがって「その時はその時だな」と考えていたら、こういうやり取りが発生した、ということになるのかなあ・・・と。(このやり取り自体が面倒だとしたら申し訳ないです。)

土俵について

余談に乗ってみる。


たとえば、「文脈からいって、悪意があるようにしか思えない」ようなコメントを貰ったとします。

そういうとき、おれの尊敬する「誠実さ」は、自分の規範を守りながら、相手の求めていることを探って、どの大きさの土俵なら表面的な合意が作れるか、その合意のなかにどれだけのお互いの納得を盛り込んで、対話した甲斐があったようにするか、というのを考えるだけの、強靱さを備えています。そして、目標が決まったら、まっすぐそのことだけを書きます。

おれみたいな意志が弱い屁理屈だけの人間は、そういうことはできないので、とりあえずその中で「表面的な合意を作るための土俵のパターン」だけを意識します。最低限ここから出たら対話終了、とか、そういうメタなことを先に決めてしまう。相手が馬乗りになってくるのが怖いから。

基本的に同意ですね。

俺のやり方はmutronixさんの言う「ガチ」にあたるのだけど、うちのブログは何か知らんのですがよく炎上するので、そういうコメントをよく頂くのですが、悪意を撒き散らすだけで話にならんケースもあれば、「悪意」がありそうだとしても話を聞くケースとか、誠実に話をしたら満足してくれて礼を言って帰っていったケースやら、こっちが話を聞いていたら逆に勉強になったみたいなケースもあったので、「ガチ」でやるのも面白いっちゃ面白いんですが、ものすごく疲れる


毎回毎回やるのは心と体が持たないので、こういうものが「誠実」と捉えている人間は自分のブログを何度か炎上させてみるべきだと思う。
こういうものが強制されるのはたまったもんじゃない。


なので、「悪意としか思えない」が来た場合は関係無いことを述べてみたり、ネタで返してみたり、スルーしたりして様子を見るケースが最近は多いですね。
時間を置くことで見えてくるものがあったり、状況が変わったりするんで。




以上がmutronixさんへの返答となります。
やたら長い文章を書いてしまい、なんだか申し訳ないです。

*1:その論を他人が使うとしても、伝えるのは自分。起点になるのは自分。

*2:アピールし過ぎるのも良くないですが、1つの手段として持っておくのはアリかなと考えてます。

*3:あまり他に知られたくないプライベートなことも含む。