下敷きと孤独

twitterもメンテナンス中なので、意味もなく自分語り。


物心ついた時から転勤族だったせいで、幼稚園1回、小学校2回、中学校1回の計4回変わり、岡山・大阪・千葉を横断。なじむ時はなじむんだけど、余所者感がふっと出てくるときがよくあったり、一人っ子だったせいもあってか、何かと話せるような兄弟もおらず、親とも歳が離れていて学校の感覚が合わないことが多くて人間関係について話せる人が少なかった。だから生きのびるために理屈っぽくなったんだろう。小学校の教諭から「大人びてる」と言われたことがあるが、そういう部分を読み取っていたんだなと思う。



理屈っぽい自分は、理屈に合わないことに対して「何やってんだろこれ」と思うことが多かった。
例えば中学生の頃大阪に住んでたんだけど、”下敷きを使わないことがかっこいい”みたいな風潮がクラスを支配し、1人、また1人と下敷きを使う奴がいなくなっていき、クラスで下敷き使ってんのは俺だけになった。ただ単純にノートの裏に鉛筆の跡が写るのがイヤだったので使っていただけだった。
そうするとある日、こう言われた。

クラスメイト「お前まだ下敷き使っとんか?!」
俺     「うん。」
クラスメイト「かっこわるいやん!!アホか!!」
俺     「……下に写るし、あかんの?」
クラスメイト「じゃあ何でみんな使ってねん!!(勝ち誇ったように)」

それ以来、こりゃダメだと思って下敷き使うのを諦めざるをえなくなった。
で、その後千葉に引越ししたんだけど、そのまま惰性で使って無かったら「なんで下敷き使わないの?」と言われて、そういえば使って良かったんだなと次の日から使い始めた。今考えてみてもアホらしい話だと思う。




思うのだけど、大阪とか千葉という地域性関係無しにこういう風習って至る所であったりする。
「それおかしくね?」って言うと「じゃあ何で皆守ってんだよ」という定型句が毎回出てくるので、そういうお決まりのフレーズが出てきたらタダの古い風習じゃないのかそれ、と疑うようにしてる。数の論理を使ってる時点で「それ以外の理由が無い」という可能性が高い。


しかし、「本当に下敷き使わないのがかっこいい」と思うのであれば自分からそれを貫くのはアリだろう。
先程用いた理屈も「実用性」の上からの理屈であって、「美学」の上からの理屈ではないからだし、賛同してくれる人もいるはずである。


で、どちらを選んだとしても批判と賛同がある。場所や時代によってその比率は大きく変わってくるだろう。
下敷きを使う・使わない、の二項対立を克服したとしても新たに高級な二項対立が出てくるだけだ。



何が言いたいかと言うと、最終的には自分で選ぶしかないということ。
選択は必ず批判と賛同を生み、選択しないことは自分を削り取らせる行為であり、批判と賛同を受けるよりも悲惨なことになる。
そして、選択するということは自分から離れていく人を生み出すということであり、生きることは選択の連続だ。最終的にはみんな独りになる




最近になってようやく、親父が「人間生まれても1人だし、死ぬ時も1人だ。」と言っていたのがよく解る。


人間1人残らず独りになるんだから今のうち仲良くしといた方が得だよ。