最近の動画と文章との付き合い方

文章にしても動画にしても何か気付くことはないか、面白い部分はないか、自分のためになるようなことはないか、と考えながらネットを徘徊しているのだけど、文章と動画というのは本当に性質が違うというか、扱い方も違う存在である。この辺りの議論は数十年前に「新聞 vs テレビ」論争で言い尽くされてそうな感があるのだけど、それも踏まえた上で過去の議論に触れていない状態を記述するものとして今回のエントリを書いてみたい。




文章を読むのは「ためになりそう」というイメージがあるのだけど、動画を見るというとテレビの「一億総白痴化」のイメージからか、あんまりためになるようなイメージが無い。ただ、動画を見るにしても上に書いたように「何か得られるようなものは無いか」という意識を持って見ていくと随分変わってくる。自分なんかはよくMAD動画を見るのだけど、作者がどういう印象を閲覧側に与えようとしてるかとか、そのためにどういう要素を動画に盛り込んでいるか、はたまた他の作品からどういう影響を受けているか、他の分野からの影響はあるか、ということを自分なりに分析していくと非常におもしろい。「分析して面白いのはお前だけだよ」と言われればそれまでなのだが、最初に動画を見て良かったなと思いそれで終わるのではなくて、2・3回と分析するために見ていったりすると意外な発見があったりして二度おいしいというか、さらにその分析結果をブログに書いてみて他から面白い反応が返ってくれば三度おいしいわけである。もしその分析の中で実生活にも役に立ちそうなものが転がってくれば、それは非常に有益なものになるだろう。考えてみればとても贅沢な楽しみ方だなと思うんだけど、案外みんなやってない。
で、余談だけど、MADを狂ったように毎日見てたせいか「視覚的にモノを捉える」部分での訓練になってたらしく、その辺りの感覚が妙に鋭敏になった。色んな意味で「バカじゃねーのか」と思われそうだがマジである。




ただその辺りの感覚が鋭敏になったのは良いのだけど、やはり文章読んだりしないと言葉でモノが考えられなくなっていくことを最近実感した。
動画を見て楽しくレビューを書いていたのは良いのだけど、動画を見すぎて文章読んでなかったせいか言葉が出なくなってしまい変に苦しんだ。動画を見すぎればレビュー(文章)が書けなくなるし、文章読んでると動画見る時間が減るというジレンマが俺の中で発生していたんだけど、よく考えれば「読む」という行為に関しては訓練次第で早く読むことが可能なんだよな。書くことも同様。それを踏まえて最近では読み・書きを動画よりも優先するようにしてるんだけど、ベストオブ常習者サイトで銅賞もらってしまったせいか「新しい動画は知っておかないといけない」「それなりの動画閲覧数を確保しておかなければ」という圧迫が自分の中にあったりするのが厄介で、そもそもこういう類の圧迫は一度破棄してしまう、忘れてしまうのが理想であり、コンテンツを楽しむための障害にしかならない。「実践が不十分であることに圧迫を感じること」と「実際に実践する」ことは全く異なる事象であるわけで、圧迫を感じていなくても実践していくことはいくらでも可能であるから、その辺り圧迫感・クヨクヨ感は不要なのだ。……と考えた結果から、本家で楽しく文章を書いていたりするわけで、サブブログにて動画の紹介を期待している方は気長にお待ちください。(言い訳)


ただ自分としては動画見るより文章読み書きするより先に木刀を振って行きたいところ。
細かい理由は省くが、うろうろ歩いて考えるよりも木刀を振りながら考えていきたいというか、最近バイト始めたおかげでバイト料も近い内にもらえそうだから木刀でも買いに行こうかと思っている次第。


……なんか全然関係ない話になったな。