嫌儲とWeb性善説

twitterにて嫌儲が少し話題になってたので、嫌儲の正当性のあるケースを考えてみる。


昔から自分の中で「Web性善説」と勝手に呼んでる構造がある。
WikiPedia辺りがわかりやすいと思うのだけど、「どんな種類の人間だろうと数を集めれば、場所を与えるだけでそれぞれの余暇を用いて、様々な専門的知識・知恵の集積が発露される。」と言われれば、ネットに多少詳しい人間ならピンと来ると思う。例を挙げると、先程のWikiPediaを含め、2chだとこんなことがタダで分かったり、ニコニコ動画だとこんなのがタダで見れたりする。(ニコニコ動画の作品はプロが余暇で作ったものらしい)
で、ポイントはこの構造に金の流れが無いこと、もっと言えば金の流れが無いからこそ成り立っているという点。




WikiPediaに関して「金の流れ」を作って運営しようとすれば、余程うまくやらない限りコンテンツはおそらく全てダメになる。
金をもらった時点である種の”プロ”になるわけだから一定レベル以上のクオリティの維持や、ミスが許されなくなる。そこには余暇や余裕というものはなくなり、今までそのクオリティを支えてきた「気が向いたら、やる」という構造が崩壊するのだ。*1
言うなれば、WikiPedia2chニコニコ動画がその力を発揮するとき、その場にいる全員がボランティアとして機能し、そこにはある種の善意というかおせっかいみたいなものがうまいこと働いた、という所がある。これを自分は「Web性善説」と呼んでいる。




嫌儲の話に戻すと、おそらく嫌儲の多くはこのWeb性善説を維持するために、意識的にしろ無意識的にしろ金の流れを作らないようにしている部分はある。ただ、このWeb性善説が機能するような状況にも関わらず、金の流れに神経過敏になり過ぎた層が存在していて、時々問題になっているのでは無いか、という話。


個人的にはこのWeb性善説の構造が守られている限り、嫌儲が何を言おうと正当性は無いのではないかと考えている。
先程述べた「気が向いたら、やる」という構造さえ確保できれば、金の流れが入っても問題は無いのだから。




参考:嫌儲の精神 - インターネットの真の姿とは

*1:この論理を応用すれば、「ブログの知名度が上がると更新頻度が落ちたり、サブブログの更新頻度が上がる」という現象も説明可能。