自立と孤独について自分メモ

親父がよく「人は生まれてもひとり、死ぬ時もひとりだ」とよく言ってたんだけど、二日前に色々考えてもうちょいその辺りの理解が深まって吐き気がした。


基本的に他人の考えてることというのは自分は理解できない。でも人間というのは寂しがりやだから、言葉があり、さらには絵画や音楽や身体を使って何か伝えようとする。逆のケースもある。
で、「ああ、解った」ということになったとしても本当にそれを理解しているかどうか、という保証というか担保は全く無い。その人ともう1人とのその時の関係性というのは再現が不可能だからだ。それを再現するとなると、この世の全てを再現可能なコンピューターを宇宙の誕生から忠実にトレースして、その二人が生まれてから忠実にその人生の足跡を辿り、その二人が出会ってそのやり取りをするところまで忠実に再現しないといけないわけだ。そんなことは自分を含め、今この文章を見ている方々が生きているうちに実現できるようなことではない。*1
つまり、人間同士のやり取りというのは曖昧であり、その理解そのものも担保があるわけではない*2。基本的に言葉は伝わらないものなのだ。
論理や記号なども質の高い体系を有しているけれど、伝わるという保証は無いというか、不完全性定理ですでに完全な客観性が否定されてしまっているのが何とも悲しい。




身体に関しては解って無い部分が多いので置いておくとして、それだと「何やったって伝わらないじゃないか」と思われそうだが、伝わる部分は伝わるんだよな、不思議なことに。
「何を根拠に伝わっていると主張するのか?」と言われれば何の根拠も無いと言うしかないが、”自分の今まで生きてきた経験の中で言えること”の分だけの確かさはある。それはどんな人間でも同じであり、100人いれば100人だけの今まで生きてきた分だけのそれぞれの確かさがある。(その辺りから「伝える」「理解する」ということを定義しなおすことは出来る。)




「それじゃあ何をやればいいのか、何を練習したり勉強したりすればいいのか」と言われそうな所なのだけど、これは各個人で見つけるしかないんだよな
基本的に何か、何でもいいからやり続けていれば見えてくるものがあるのだけど、身体のつくりも考え方も各個人で異なるし、今まで生きてきた環境や人生経験なども含めると同じ人というのは1人としていない。そんな全員をぴったり合うような「たった1つの方法」なんざあるわけが無いし、そんなものがありますよと唱えてしまうこと自体が欺瞞になる。各個人にフィットする「それ」を見つけるのは”本人”がやるしかなく、「見つかりません」と誰かに言っても、本人のことがいちばん解ってるのは本人であるから、言われた方は探しようが無いのだ。


「その”何か”を見つけるのは自分しかいなくて、磨き上げるのも自分だけ。それをやらなければ一生何もわからない。」という”自分だけ”でしか達成できず、他に誰も、本当に手伝ってくれない、手伝うことすら出来ない、という事実に気付いて吐き気がした。能力の有無に関わらず無慈悲かつ平等にその課題が課せられているわけであるし、仮にそれを見つけて磨き上げたとしても各個人が別々のことをやるのだから、待っているのは”孤独”という結果であり、なかなか悪趣味な構造してるなと思う。(結果的には後者の方がマシだが)




とりあえず、少なくとも自分は「”何か”をやり続けるしかない」という解決策を確保できたわけだから、それに従っていったり、もう少し良い方法があればそっちに鞍替えとか色々していきたい。

*1:厳密に言えば、そのようなコンピューターは存在しないだろう。バタフライ効果を考えると、どこかで誤差が出てくるはず。

*2:クオリアの問題に近いところがある