「書く」ことが好きな人間

最近思うのが、昔から「読むのが好きな人」というのは”本”という強力な媒体があったから特に問題も無かったのだけど、それとは逆に「書くのが好きな人」はほんの最近のウェブサイトやらブログやらが出来るまでは「書く」と「読む」のバランスが「読む」側に非常に傾いていて、昔の世代はどうやってその辺りのエネルギー放出してたんだろうな、とか思ったり思わなかったり。*1あ、でも新聞や雑誌の投書欄とかがあるか。(ネットには適わんけど)


というのも、自分が「書く」人間であって、これといった読書もしてないような青二才がそれを自覚しつつもWWWの片隅で偉そうな放言をしているのも、書くことに対して飢えがあるからであって、読むことに対する飢えではない。ただし、「読む」と「書く」とそもそも表裏一体であるから、どちらか片方をやっていればもう片方をやりたくなるのが人間であって、読書をこなよく愛する人間が書くことに対して興味が向くのと同様に、自分のような「書く」ことが好きな人間もどうやら最近読書に対する興味が出てきたようで、ここ数日図書館巡りをしていたり、大きめの本屋をぐるぐる回ったりしている。
ただ、”読書を愛しているが故に書きたいという人”の書くもののテーマと、そもそも”最初から何かが書きたい人間”の書きたいテーマというのはやはり趣向が異なる傾向があるのと同様に、”最初から読書が好き”という人間の選書センスと”書きたいが故に読む”人間の選書センスというのは随分異なるようだ、と最近改めて実感した。


また、自分は書くことから入ったせいか、本を読むときでも筆者が何を意図してこの文や単語を配置したのか、と考えるクセが良くも悪くも付いてしまっているらしく、通常の文章であれば、読書と筆者という二者の視点から読めるから良いのだけど、翻訳の入った本であると筆者視点の読解にエラーが生じて途端に読めなくなったりするから困る。……とは言ってもちゃんとした本読みであればその辺りをしっかり身に着けているから、「何を今更そんな事言ってんの?アホか。」と言われても仕方無いのだけど、「書く」ことから入った人間だとその辺りが早い段階で身につきますよ、という話。逆を言えば「読む」ことから入った人間が早い段階で身に着けてしまうようなことを、「書く」ことから入った人間はなかなか身に付けられない、とは言える。




とまあ、最近日記書いてない理由を「読書してました」と言って弁解、という単純なお話でした。(投げやりな締め)

*1:本当に書きたければ自分1人でノートに書いてるという話もありそうだけど、それはまた別の機会にでも。