ブログという名の古井戸


なのに、何故自分はネットに吐き出すことを止めないのだろう。このような普段なら言えない様なことでも、何でも言えてしまえる、そんな雰囲気にさせられるのが匿名性の高いネットサービスの一つの特徴であり、自分以外のネットサービス利用者の中でも共有される自明の理であるなら、今さら「何で俺は何でもあけすけに自分語りを続けてしまうのか」なんて疑問に思うことも詮無いことではある。


多分、こんなことを書いてはいるが誰かに理解されたい訳ではない。苦しいと声を上げることも心の底から救いを求めているのでもない。それでも、俺は自分語りを止めるではなし。じゃあ一体なんなのか。答えはいつも分からないままだ。ただ、立ち止まって考えるといつも、このような語りをする自分の存在を、第三者視点から「恥ずかしい奴」「醜い奴」と蔑む、もう一人の自分の存在を強く意識してしまうのだ。俺は別段、誰かから弱い奴だとしてレッテルを貼られることを望んではいない。寧ろ本当の望みは全くの逆なんだと思う。

ふと思いついたんだけど、ブログって「王様の耳はロバの耳」に出てくるような古井戸じゃなかろうか。


よくネット上の文章というのは「ゲロ袋」とか「うんこ」とか排泄物に例えられることが多い。
2chが「便所の落書き」というのもある意味意味深ではある。)


それだけ「他人にも自分にもいらないもの」とか「出した方が良いもの」というイメージで捉えられるものだということなのだろうけど、もっと良い例えを考えていたら「王様の耳はロバの耳に出てくる古井戸」というのがすごくしっくり来た。


ブログと同じく溜まりに溜まった感情を大声で叫んだり嘆いたりする場所であるし、人目につかない場所にあったりするし、しかも井戸自体が地下に向かってて水脈とつながってるから他の井戸ともつながってるという点で出来すぎてる。さらに、ずっと叫び続けていたらその井戸周辺から全く同じ嘆きが聞こえるようになってしまって、重大な秘密が全部バレてしまう、あるいはもう溜まったものを吐露することが出来なくなってしまう辺りで被る部分がある。



そして、井戸というのは人間じゃないというのが大きなポイントではなかろうか。
ブログというのは人が見ることが出来るからこそ、「潜在的に人に見られたい」印象が付くのだけど実はそうじゃないケースもあって、井戸に向かって叫ぶようなケースもあるんだろうと思う。人と話すことはあっても、井戸と話すことは無いというか。
(井戸に向かって叫ぶように人と話すケース、というのもあるが)


正確にはブログというのは「他人」と「井戸」のはざまでフラフラしてて、都合の良い時にどちらかに一時的に固定されたり、6:4とかで両方同時に役割を担うこととかがあったりするのだろう。




とまあ、うまくまとまらないので寝る。(投げやり)