文章うまくなるうんぬんの話

テキストサイト周辺の文章をよく読んでた頃、GAMIANというサイトでゲームの批評文を読んだときに、文章の巧さとか言葉の選びだけでなく、物事における「その人が気付いたこと」を前面に押し出してて「ゲームの事を、ここまでうまく書けるものなのか」と感動したと同時に、「うまい文章は書けないけど、論や構造とかの『気付いたこと』なら俺にも書ける」と思ったのがネットで文章書くきっかけになったなあ。
ただ、小学校入る前ぐらいから算数大好きで高校生ぐらいまで偏った意味での理系で、読書がそれほど好きでも無い上に作文はマジで嫌いで、上のような経緯を辿った人間としては「文章うまくなるためには文章書いたり、本をたくさん読め」っていう話は納得いく部分もあるけど、かなり腑に落ちない部分もあるのだよな。重要なのは「論」とか「感覚そのもののトレース*1」であって、エントリが伝わるんであれば極端な話「箇条書きで良い」って考えてるんだけど、それだけでは大抵の人はわからないし、面白くもないから皆読もうとしない。だから色々人が読みやすく、楽しめるように修飾する。そこでやっと文章になる感じ。


で、話戻すと「文章うまくなるためには文章書いたり、本をたくさん読め」っていう話を聞く度に思うんだけど「それって日本語(現代)だけじゃん。バランス悪くね?」って思うのは俺だけなんだろうか。
ぶっちゃけ英文和訳やってる時に日本語の楽しさを知った身としては、文章うまくするには英語やったり数学やったり古文やったり中国語やってもいいんでないかと思ったりする。いや、文章というか教養って話になってしまうのかもしれんけど、日本語の形式とはかなり離れた言語である英語を日本語に翻訳するのは言葉選びで相当考えたりする意味で文章の訓練になる部分はあるし、数学の問題解く時に高校で理系クラスだった人や受験で使った人はわかると思うけど一種の文章書くんですよね。必要最低限の事柄だけを書く文章。その辺りの取捨選択は文章書く時に役立つし、古文だって自分が使っている言葉のルーツを知ったり、現代に残っているといえば相当な名文が多いだろうから参考になる部分はあるだろうし、中国語も同じ漢字文化圏として言葉の深みを増す役割として用いたり、外国語として母国語を磨く役目としても使えるだろうと思うのですよ。何でそういう話が出ないのかな、と。


それ関連で言うと「日本語の論理」って本に興味深い話があって、小説家や評論家よりも文章がうまい人は科学者や漫画家に多いって話があるんですよね。絵描いたりとか、手話とかダンスとかの「表現」に相当するものなら大体役に立てることが出来るのかも。

日本語の論理 (中公文庫)

日本語の論理 (中公文庫)

俺も合気道の練習の一環として毎日木刀振ったりしてますが、案外その時に色々閃いたりするしなあ。妙なもんです。

*1:感覚に関してはまた文脈が少し違うんだけども