頭の中のモデル

気づいたのは2年前辺りだったと思うんだけど、何かを学ぶのに師匠と一緒に生活して、身の回りの世話する描写ってあるじゃないですか、あれって何でだろうってずっと考えていたんですよ。何か意味がありそうで。
中には「あんなもの意味はない。面倒だから世話させてるだけ。」と言ってしまう人もいるのだけど、どうしてもそう思えなかった。


ある日にWikipediaで、鹿島神流の達人である国井善弥の項目を眺めてたら、こんな記述があった。

  • 國井善弥は修業時代、新陰流免許皆伝の佐々木正之進という先生の内弟子になった。内弟子になった次の日から、佐々木は國井に「何を持って来い、何もついでに。」という指示を出す。「何」と言われてもまったく見当が付かないが、これは相手の思っているところを察知する心眼獲得のための修業だったのだという。師の命令は次第に「何を何して、何は何々」と曖昧さを増すようになったが、國井はかなりの確率で師の意思を掴むことができるようになった。この修業が立会いにおいて、相手の動きを事前に読みきる能力に活かされたという。
国井善弥 - Wikipedia

今読むとモロ答え。最初見たときはまだよく解っていなかったんだけど「これだ」と思った。「人間のモデル」を頭の中に叩き込むことなんだなと。
もう少し言うと、人間の行動パターンとか心の動きのパターンを自分の中で網羅、体系化することで1つの動的イメージを作り上げること。




例えば、猫飼って世話してたりすると、今こいつは腹が減ってるかとか、遊んで欲しいと思ってるだとか、どのくらいからかったら怒り出すかとか分かってきたりする。そうなると、頭の中に猫のモデルが頭の中に叩き込まれてるから、そいつがいない時でも、さしみを渡されたら手の先をちょっと曲げながら練習中のボクサーの如く取ろうとするだろうとか想像がつくんですよ。その頭の中のモデルは他の猫でも十分応用が効く。
それと同じように人間も「頭の中のモデル」が作れる。ただ、人間の場合は猫よりも少々行動が複雑なのでモデルを作り上げるのに必要な継続時間が長めになってて、それは他の人間にも十分応用が可能……と。




だいたい人間も腹減ってる時とか怒ってる時とか、同じパターンの行動することとか結構多いんですよね。皆腹減れば「飯食いたい」って言うし、怒ってれば強い口調になったり怒った顔をする。考えてみれば当たり前の事であって。
そういう意味では、「恋人」とか「子育て」なんかも同じなんだろうと思う。恋人や子供が出来てやさしくなっただとか、子育てして自分がどう育てられたか解るようになったとか、人の気持ちが解るようになったとか、なんとなくわかる。




面白いのは「師匠」、「猫」、「子育て」、「恋人」、それら全ての関係に「相手への世話」が含まれていること、「自分が相手の望みを叶える役割」ということ。
相手への行動パターンの収集・処理を効率化すると、相手の事をよく観察していないといけない。「世話」する関係となると、相手は世話してくれる訳だからやってきてくれるため、より近くでより高い頻度で接することができる。もちろん、その世話の中で「望み」を叶えてくれない場合は去っていく訳だけど、望みを探っていく操作も「頭の中のモデル」を磨いていく重要な作業だったりする。「望み」で行動結果が左右される訳だから。




「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものだけど、「好き」ってのは「頭の中のモデル」を作り上げる作業を全く苦にしなくなる強力な麻酔薬なんだよね。
ずいぶん昔から、よくこれだけ強力なものを発明してたもんだな思う。