脊髄反射でエントリ書いてみる。
現象派と理論派の対立 - 傷つけたくない症候群の鬱陶しい空気感
「ミーちゃんがネ。さっきネ、ワタシのネ、靴をネ。...」幼児語であるところの、これが世代や性別を突き抜けて、学校に通い始めてからもずーっと使い続けて、中学校・高校とそのまま放っておいた結果が、いちいち他人に確認しないといけない感性が普通になってしまっている。
こういうウザい表現の例を挙げれば、「こちらの方でよろしかったでしょうか?」なんてのがある。(正しくは「こちらでよろしいですね?」)
他人を傷つけることに不安を感じるウザイ表現というのは、人格の未成熟や、それゆえの心理不安を現しているのだろうな。
特徴としては、
- 無駄に長くなる
- ほのめかし
- 同意を求める
といった例が挙げられる。
が、こういったものは昔からあったように思える。
今書いたように評論でも断定長ではなく「〜に思える」とか「〜だろう」とかいったものや、代表的なものでは「おみおつけ」ってのがある。
最初は「付け」だったのが「御付け」になり、「御御付け」になり、「御御御付け」になったという有名なアレだ。
こういうモノは探すといくらでもありそうだ。
学校のクラスは村社会
こういうベタな話だと「日本は〜」みたいな話になるのだが、日本がず〜っとこういう風習とかじゃなくて、定期的に”そういう時期”が来る国なんじゃないかなと予測する。
村八分なんかを想像すると村ぐるみで「いじめ」をやってたわけだが、じゃあ”そういう時期”に今の時代は近い、つまり”村社会”に近くなっているということ。集団で行わざるを得ないタイプの農耕・牧畜から開放されたはずなのに、村社会に近くなっている。なんだこれは。
っていうことは、『小規模の集団』に分断されてるってことになる……ってああ、学校のクラスのことか。
考えてみれば、クラス単位でで何でもかんでも集団でやるもんな。授業、運動会、文化祭、修学旅行、卒業式……。
で、これらは「集団で行わざるを得ないタイプの活動」だから村八分にされることが危機的状況に繋がる。これが”いじめ”と定義できる。*1
昔の村社会と現在のクラス村社会のデメリットを比較してみると、
昔の村社会は村八分にされると、食料が手に入らなくなり文字通り抹殺される。
それに対して、
現在のクラス内村社会で村八分にされると、公共教育・卒業資格が手に入らなくなり、社会的に抹殺される。*2
と無理矢理まとめてみる。