「故郷」について

岡山6年、大阪6年、千葉8年、東京6年住んだ元転勤族の身として、多少心をひっかきまわすモノがあった。
トカイとイナカとジャスコ


なんつーか、自分語りで面白くはないし、たいていの人から見てどうでもいいことを書くけど、俺は故郷が無い。
少なくとも分裂してるから、こうこじれていても故郷がある人ってのは俺にとってはとても羨ましくて、妬ましい。




この増田は敢えて「故郷」と書かずに周辺から懐かしさの描写で埋めていって故郷を遠まわしに「田舎」と語っているところはわざとなんだろうけど、
この増田のいう「田舎」は間違いなく増田自身の故郷で、世の中には人それぞれの「田舎」があるということに増田はちっとも語っていない。分かってるのかいないのか、分かってるとは思うが。




山の手の閑静な住宅街で育ってきた人たちは、自分達の恵まれた境遇に何1つ気付いていなかったが、俺から見れば増田自身もとても恵まれているのに、それにちっとも気付いていない。自分の意志で多様なセミの鳴き声をアブラゼミのみにするぐらいなら良いが、ある日を境に多様なセミの鳴き声がクマゼミのみになったときのどうしようも無さをこの増田は知らない。
また、自分の故郷を「田舎」と揶揄する人達は腐るほどいるが、その人達に対して純粋に怒ることができるのは自分の故郷があるおかげだということ。そして、故郷の無い人間はそのような故郷への揶揄を見て、ただ呆れるしか出来ないことをこの増田は知らない。ただモノを知らない人がいるだけなら、怒りなんて沸き上がってこない。故郷がある前提で話をし、ましてやそれを貶めるなんぞ、狂気の沙汰だ。
増田のいう田舎の人が新宿だの渋谷だの秋葉原だの上野、池袋をいっしょくたにして「東京」という曖昧な理解をしていることに対する怒りは共感できるが、青森や茨木、岐阜、岡山、山口、宮崎、鹿児島など多くの都道府県に田舎と呼ばれる場所はたくさんあるのに、それを全部いっしょくたにして「田舎」という曖昧な理解に対して、俺は怒りを感じる。山林の生態も違えば産業や歴史も異なる。自分の故郷が田舎の代表などと誰が決めたのだろう。




自分の故郷の良さを、屈託なく話す人が俺は好きだ。第二の故郷を屈託なく話す人が、俺は好きだ。故郷は自分と切っても切り離せない自分の一部だ。自分を認められないひとが、他人を認められようか。
風来のシレンというビデオゲームに「奇岩谷」という未開の絶壁に住む村人の1人が言う言葉に「風来坊のあんたにゃわからんかもしれんが、こういうとこでも人間、住めば都なんじゃよ。」という言葉を、俺は愛する。




増田は「イナカ」も「トカイ」も幻想でしかないと言う。「故郷」も同様に幻想だ。時間というのは常に過ぎ去っていくし、別の場所に住んでいれば、馴染みのモノも人も風化する。それは別のものでしかなくなる。
正確に言えば「故郷」は死ぬんだと言える。生きている間は憎んだり疎んだり喜んだり愛でることもできる。死ねば語ることさえ出来ない。それなら、生きている内に愛でていた方がいい。憎んだり疎んでも、悔やんだり余計こじれるようにしか、俺には見えない。「故郷」はまさに自分の中にあるのだから。


増田は追記を書いていたが、「ここしかないと思える場所に立ち止まるしかないであろう」という長い間地に根を張った人間特有の思考法に嫉妬しながら、植木鉢のまま根を自分の中に折りたたんでいる俺は「そこでいいじゃねえか」と思うばかりなのだ。