日本文化論レポート 〜わたしの世代の小中学校〜

小中学生時代の話だ。
中学、小学校には生徒会長とか何々委員という役割がある。いわゆる生徒のリーダーであり、優等生が担うものだった。それに選ばれた人は他をまとめるだけの能力があるとみなされ、生徒会長とは一種のステータスとも見られるようにもなった。しかし現在では学生たちはそれほど生徒会長をやらないようになってしまった。これには理由がある。
一つは面倒くさいからだ。
生徒会長というものは人をまとめるために仕事をする。仕事をすれば遊ぶ暇は無くなり自分の自由に使える時間が無くなるからだ。そのためか生徒会長の候補が出てこず、先生側が困ってしまい仕方なく推薦で選ぶということがよくあった。となると、クラスの中でも立場の弱い人間が選ばれることとなる。小中学校では少なくともそうだった。(高校あたりになればそうではないケースは出てくるかもしれない)学生の立場でありながら人を統率する良い練習機会であることは今更ながら自覚しているが、小学〜高校までは何の疑問も持たずに生徒会長とは「立場の弱い人間がやるもの」と考えていて、何の疑問も持たなかった。だから生徒会長や委員会に入っている人間が「えらい」とか「すごい」とか言われるのかが分からなかった。これは少なくとも自分一人の考え方ではなく、当時「面倒くさい」と言っている人間が何人もいたのだ。
だが、なぜこのことに少しも疑問を持たなかったのだろうか。
自分の場合、疑問を持ったのはアルバイトをするようになってからだ。何らかの役職を持っている人には仕事をスムーズにこなす人が多く、特にリーダーは誰でもできるのもではないと実感したせいだ。つまり「仕事」についての意識が有るか無いかということになる。ということは、昔の学生はそれだけ仕事に対して意識していたということだ。比較すればそれだけ自分たちが仕事とは遠いところで学生生活を送っていたということになり、それだけ甘やかされているということだろう。それでは何故甘やかされているのかというと、皆が裕福になったからだ。裕福になれば家に経済的余裕もでき、子供は家庭の経済事情から開放される。
一旦話を生徒会長の話に戻す。
役職を避けるもう一つの理由に目立ちたくないと感じているからではないか、と考える。
人の上に立てばそれだけ人の目に晒される。晒されれば注目される。それに耐えうる自信がなく、出る杭は打たれると感じてしまうのではないか。これは講師が生徒に話しかけるタイプの授業で講師が話しかけても目を逸らし気味だったり、そっけない答え方をしたりするのもこのせいである(他の人に合わせるという要因も働くが)。若い人間の大半が弱くなったのだ。
若い人間が弱くなったのは裕福さに原因がある。将来に対する不安要素が無いせいで何らかの技術を身につけようとする意欲が減る。このままでも何とかなるような気がしてくる。そのために”これ”といった自分を信用できる技術が持てず、自信が持てないために精神的に弱くなったのではないか。ふと思ったのだが最近のひきこもりはこれに起因している気がする。先生が前から言っていたように昔の人間が「篭る」(例:山篭り)ことで何かを得ていたように、ひき”篭る”ことで何かを得ようとしているのではないだろうか。
一時期問題になった”いじめ”もこの弱体化が一つの原因になっているだろう。
いじめは弱い人間を「集団」で攻撃する。同じことを皆でやればその集団は団結する。つまり弱い人間を皆で攻撃することでその集団をより団結させていることがいじめの機能である。こういう構造は昔からよくあった。ただ、メディアが大々的に取り上げていた以上、昔の小学中学生などの子供はあまりやっていなかったと思われる(自分は”いじめ”の世代に生まれており比較対照が無いので推測した)。では今の小中学生はいじめを行う。これは弱くなったからだ。弱いから集団を作って自分を保とうとしても「弱さから身を守るため」に集団を作った場合はどうしても結束力が弱い。だからいじめを行うことで結束力を高めるのだ。
しかし改めて考えてみれば優秀なリーダーがいれば集団は維持できるはずである。ある意味生徒会長が出てこないのもリーダー不在から来ているのか。この考えを押し進めると優秀なリーダーがなかなか出てこないということは人と接する機会が昔より減ったということもあるのかもしれない。昔は今ほど塀や壁などの人工物、つまり「へだたり」が無かったはずだ。
最近、学校は「勉学の場」としての意味合いよりも「集団行動を学ぶ場」としての意味合いが強いらしい。総合学習教育もそのためだ。勉学自体は図書館やインターネットでいくらでも勉強できるような状況(インターネット自体、アメリカが教育のために導入した)であるし、もし勉強の対象になるような施設に見学に行くための交通網も揃っているから訪問も容易だ。だから学校で勉学を学ぶ意義はほとんど無い。だから「集団行動教育」を行う場として機能させるようだ。今後、小中学校はある意味重要な存在になるのかもしれない。