「辛いこと」がブログになる

最近辛いことがあった。でも本当に辛いならこんなところに書かないわな。ノートの日記に書いたり、親友だけに話したり…。わざわざ万人に知れ渡るように細工されているブログなどにどうして書くことができようか。

ただ本当に辛くないけど辛いとき、ブログに愚痴を書いてしまうことがある。「ブログで愚痴を書く」ということは、この広大なWorld Wide Webの片隅とはいえ自分の愚痴を発信するという汚らしいことをやっているわけだ。全人類にちいさなちいさな自分の不幸を伝えたいという害悪。ただしそんな小さな不幸ではなく、もっと大きな不幸を伝えればブロガーとしては立派なものになるだろうに。
俺の場合、本当に辛いことがあればブログを書く。グチじゃなくて考察を書く。むしろ辛いことがあるほど何かが書きたくなるのだ。辛い原因となっている”そのこと”以外の全く関係のないことを、だ。要するにそんな感情がブログのガソリンとなっている部分がある。頭に来ることがあったり、悲しいことがあったり、非常に落ち込むことがあればブログを書く。感情に比例して長く長く。なんとも寂しい奴だ。
ただ、友人がヒマだったりすると捕獲して飲みに連れていき、愚痴を話すケースの方が多い(友人にはいい迷惑だが)。その点から考えればブログには一種の効果がある。
ブログには「話す」効果があるのだ。

ある作家の話だと、あらかじめ書くことを考えておくのではなく、白紙の原稿用紙と向かい合うことではじめて書く内容が思い浮かぶという。手前味噌だが、書道準師範の我が母も、紙と向かい合うときにはじめて、書ける内容が思い浮かぶんだそうだ。もちろん頭で内容を考えておいてから書く、という人もいるだろうが、白紙と向き合うことで文章が生まれる人種が特定量いることは確かだ。同じように、話すことも話す相手がいることではじめて、話す内容が生まれる。あらかじめ話したい内容があったとしても、そればかりにこだわっていれば話の内容は弾まない。ブログに書くということは話すことに近いと言える。だから愚痴も言えるのだ。

ここで「ブログ」に限定せずとも「書くこと」自体がそうだろう、というツッコミがあるかもしれない。ただ、普通の日記などに比べ、ブログはより話すことに特化した存在と言える。トラックバックとコメントの機能があるからだ。トラックバックにより他人からのリンクを知るかもしれないし、書いてからコメントだってもらえるかもしれない、そう考える余地があることでさらに「ブログと話す」機会が生まれやすい。

だからこそ、人と話すことを前提とすれば、あまり愚痴など言いたくないものだ。せめてカタチだけでも変えたい。建前を言えばそうなるだろう。

辛いことがあればブログを書き、できればそれを昇華させたい。wwwの端っこでそんなことを願っている。