オッサン化について考える


オッサン化は良くない。
やみくもな努力が面倒臭くなり、リスクを極端に回避し、変な万能感があるせいか、いちいち物事を調べるのがおっくうになり適当な発言をするようになる。実に良くない。


そして、25近くなった自分は最近自分のオッサン化が進んでるんじゃないかと危惧している。
今日は「オッサン化」について少々考えてみたい。

メタ視とオッサン化

確信的な推測を述べると、おそらく分析的にものごとを見る人、メタ視が得意な人ほどオッサン化は進みやすいんじゃないかなと思う。


二十代になっていくと、十代前半の頃には陳腐な言葉だと一笑に付していたような言葉が実は圧縮がかかっていただけで、経験・体験という解凍ソフトを用いることによって膨大な情報量を持つことに大半の人間が気付いたりするわけだが、その気付きそのものも「オッサン化」の落とし穴の範疇じゃないのかと最近疑問に思い始めた。


前にどっかの2chまとめブログで「歳を取ってから初めて気付いたこと」みたいな記事があって、その中に「オヤジギャグが理解できるようになった」というものがあり、状況とか情報とかを端的かつうまい具合に圧縮して言うと何かってなると回りに回ってつまらなくなってしまうというか、圧縮せずに述べた方が結局は面白かったりするところを”自分自身にとってはつまらない”から結局情報圧縮したオヤジギャグを述べることで満足し、それの理解を得られない自分が滑稽で「ブフーッ!」と笑ってしまい、何こいつこんなことで笑ってんの?と冷たい視線を浴びている自分がまた滑稽で……、とかいうオヤジギャグスパイラルみたいなものがあるらしく、これで納得してしまった自分もどうかとは思うのだが、一応理解はできる。


そういう意味合いから理屈やメタ視などに優れた人ほどオッサン化が激しいのではないかな、という推測があるのだけど、もともとメタに生きてる人は”そう生きる”しか無いわけで、わざわざ変えるというのも勿体無い話なのだ。その逆のベタに生きてる人がメタに生きるというのも勿体無い話ではある。
ここで、メタに生きている人はオッサン化をどうすれば避けられるのかを考えてみると、とことんメタに生きるしか無いのではないか?と思うのだ。いや、オヤジギャグを肯定するわけではなくて、オヤジギャグもさらに洗練して、真の意味がわからない人にもひっかかるような機能を付けて笑えるぐらいのメタ能力があれば、それはもう笑えるものになるんじゃないか、という提案だ。
問題点としては一度オッサンになる必要があるというか、一度その道を通らなければならない点が厳しいところだと言える。


逆にベタに生きている人、分析的に生きていない人はその意味では強いよな、と思う。*1

もうすぐ25歳

今月の25日で25歳という四捨五入すると30になる歳、運動能力が上がるのは25歳までとか言われてる歳になるのは感慨深い部分もあるのだけど、逆に「老い」というものを意識せざるを得ない歳になったかという寂しさもあるわけです。(こういうこと言ってると各所から殴られそうだが、敢えて気にしない。)
幸いながら自分の中では「まだ25歳」という意識があるので何とか今のうちにやるべきことをやっておきたいものだ。


参考:なんたらかんたら: 俺のッ!ギャグ100連発!! 前編

*1:一度メタに進み始めると辛いけど