初めて話す人だとやたらめったら話が合わないことがあるんだけど、「合わない」って判断して切り捨てるよりも「外国語を喋っている」と考えた方がまだ合理的なんじゃないかと最近思い始めた。
というのも、最近「対話」というものに対して深く考える機会がよくあって、本当に濃密なやり取りしようかと思ったら、手間と時間が膨大にかかるだけでなく、お互いの負担も非常に大きいものになる。で、しかもそういうやり取りをした経験が無いとやってない方は付いていけないどころか、相手がそういう濃密なやり取りしようとしていることすら気付かなかったりする。この辺りを阿吽の呼吸でやり取りが出来る相手は本当に貴重だなあ、と。
濃密なやり取りをすると言っても大半の人間に対してはそこまで高水準のものを持ってくるのもしんどいので、もう少し省エネなものになり、ある程度齟齬があっても「まあしょうがないか。」ってことに。そんな水準でも耐え切れないレベルの齟齬が発生し始める相手というのは結構いたりして、こういう時に「合わない」とかいう言葉が出てくるんだけども、「合わない」って言葉で合わない相手に対して仕切りを作ってしまってもそれはそれでアリだと思うものの、なんか最近勿体無いなあという気持ちが出てきた。こういう言い方するのもアレだけど人的資源の調整ができてないのかも、とか思ったり。
「合わない」原因考えると人によって様々なのだろうけど、プロトコルとか言葉の定義とか背景知識みたいなもんが違うのだろうなと思いつつ、そういえば母に「人と付き合っていく上で何がいちばん大切か。」って聞いたときに「やっぱり”常識”がいちばん大切やね。そりゃあ場所によって常識は違うけど、”そこの常識”を真っ先に知らんといかんよ。察しないと。」って言ってたこと思い出して、ああ常識ってそういうことなのかと思った。俺が3wordぐらい出してる間に母は1wordですでにまとめちゃってたのか、と軽く感嘆。
そういうこと考えると初めて話す人は外人かもしれない、と思った方が良いのかもしれない。
その方が段階的な情報伝達を考えるし、「きっと通じるはず」って甘えも軽減できそうな気がするからだ。
あと余談だけど、言語って一億人が齟齬なく話せるようには出来てないんじゃないかなとか思った。
ある程度の小集団ならちゃんと話せるようには出来ていて、それ以上になると本来は外国語(方言)に分化して成り立たないはずなんだけど、現代はメディアが発達し過ぎててその辺りの外国語化が食い止められてはいるものの、その仕切りが色んなところへ分散してしまっていて、色んな齟齬生んでたりするのかもなあ、と会社帰りの中で妄想してた。